過渡回折格子(トランジェントグレーティング;TG)法や過渡レンズ法等のレーザー分光法を用いて、溶液内の興味深い現象を解明する多くの新規な手法を開発してきている。特に最近は、タンパク質などの生体分子反応を明らかにする研究が中心となっている。
1、反応のエンタルピー・分子体積変化計測の新手法の開発
反応に伴う発熱(エンタルピー変化)や分子体積変化という量は、化学反応を記述する上で非常に基本的である上に、生体分子反応を理解する上で必要不可欠の値である。この量を測定する手法としては、古典的な反応速度や平衡定数の温度依存性や圧力効果から求める手法が用いられてきたが、化学反応のように反応が速い場合や非可逆反応では、こうした古典的手法は使用できない。新しい発想に基づいた非線形光学効果による手法を開発し、光化学反応のエンタルピーや分子体積変化を正確に、しかも時間分解で測定することに成功した。更に、この手法を発展させ、現在では熱容量や熱膨張係数、圧縮率なども時間分解で計測可能としている。現在のところ、多くの反応に一般的に用いることのできる分光学的手法は、世界でも唯一この手法のみであり、今後は化学反応研究での標準的方法になることが予想される。
2、タンパク質構造変化の時間分解研究
タンパク質が機能する際には、その構造やエネルギーなどの状態に変化が起こる。もちろん、こうした変化の分子論的機構解明は、”通常の”分子科学研究の範疇にある。例えば、エンタルピーやエントロピーなどの熱力学的測定とその理論的考察から状態が特徴付けられているし、現在では数多くの分光学的測定法が進歩し、フェムト秒の時間スケールから化学結合の解裂や生成過程、電子移動、異性化反応などの機構が明らかにされるようになっている。しかし、小さい分子の研究と、タンパク質研究を大きく異ならせているのは、(機能と言う問題は別にして)タンパク質の持つ天文学的な数の自由度とその複雑さにある。例えば、エタノールとエタノールの水素結合が切れるのを調べるには、水素結合に対応する振動の赤外吸収スペクトルとその時間変化を観れば、本質の大体の所は予想できるように、一部を見てもそれで全体像の本質が分かることもあるであろう。これに対して、タンパク質では分子内にも分子間にも多くの水素結合を持ち、構造が大きく変わるとともに、水素結合の組み換えが劇的に起こる。どのようにして分子間水素結合と分子内水素結合を区別して、時間変化を観ることができるだろうか。こうした全体的な変化を、一本の水素結合変化として見分けるのは難しいし、またそれができたとしてもそれが反応を特徴付ける本質とは限らないのである。こうした時、いくつかの分子や原子団の動きだけを見ることをやめ、一歩引いて大局を見ることで、これまで見えなかった全体像がつかめることもある。巨大な象のあまりにそばに寄りすぎて鼻の毛や足のつめをいくら調べても象の全体像や歩くダイナミクスが想像もできないのと同じである。こうした「隠された」ダイナミクスを「大局的な」観点から明らかにするために、我々はいくつかの新しい測定法を提出してきた。それは大きく分けて、時間分解熱力学法と、時間分解拡散係数測定法と呼べる。
熱力学は、200年以上の歴史を通して、物質の状態を特徴付けたり反応進行の原因を明らかにするために大きな役割を果たしており、化学の中心的分野の一つである。一方、分光法による研究は様々なダイナミクスを明らかにしてきた。このように反応のダイナミクス解明と熱力学量の測定は、化学における両輪の役目を果たしており、ダイナミクスと熱力学から得られる情報を統合することによって、化学反応の理解はより深まるであろうが、これまでこれらの2つの分野の融合はほとんどなかった。それは、ごく最近までこうした熱力学量の速い時間分解測定が不可能であったためである。すなわち、熱力学量は定常状態で測られる量であり、その非平衡状態での時間発展や短寿命中間体に対して適用する手法がなく、そのため熱力学量から見たダイナミクスという概念がなかったのである。また、多くの化学反応は不可逆であり、平衡定数が求められない場合も多く、熱力学量が得られなかったという原理的な制限もある。この点に関して、我々の研究により、熱力学量の時間発展が時間分解法で調べることができるようになり、タンパク質反応の解明に大きな手がかりを与えることが分かってきた。例えば、体積変化を時間分解検出する事で、発色団から離れた部分の構造変化の存在とその速度を明らかにできる。従来は、吸収スペクトル変化がなければ反応がないと多くの場合認識されていたが、スペクトル変化にかからない中間体が種々存在する事が明らかとなっている。
次の問題として、どうすれば分子間と分子内水素結合の変化を区別して検出することができるであろうか。その一つの提案が、分子拡散を時間分解観測するということである。分子運動としての動きやすさは拡散係数という一つの数値で表されるが、これは分子の大きさや粘度といった情報以外に、分子間相互作用についての情報を含み、特にタンパク質反応を調べる上で非常に有用であることが分かってきた。この値を測定するには、分子の空間上での動きを測定しなければならないが、拡散の動きは遅く、測定できるだけの距離を動くためにはかなり時間がかかる。例えば、室温水溶液中で比較的小さい蛋白質が平均1mm動くためには、1時間以上かかるのである。よって、従来の方法では、測定に数10分から数時間のオーダーで時間がかかるため、反応に伴う変化という概念はなかった。これに対して、TG法を用いることで、マイクロ秒からミリ秒の時間スケールで拡散を観測することができる。この手法により、拡散係数が圧倒的に速く測定できるというメリット以上に、時間分解で刻々と変わる拡散係数が始めて測定可能となった。つまり、分子間相互作用の時間分解検出法として使われるようになったのである。この手法によって、従来は隠されていたドラスティックなタンパク質の構造変化が明らかにされ始めている。
(A)光センサータンパク質
(1)Photoactive Yellow Protein (PYP)の構造変化
PYPは比較的最近に紅色光合成細菌より単離された水溶性の光受容蛋白質である。発色団はp-クマル酸であり、ロドプシンのレチナールとは異なっているが、光励起後の光サイクルがロドプシンに類似していることから、モデル蛋白質としても多くの興味が寄せられはじめている。この蛋白質の光反応では、光励起により発色団が異性化し、まず基底状態pGは吸収帯が長波長シフトした中間体pR1、pR2となる。続いて、~170 ?sの時定数でプロトン移動を伴いながら吸収帯が短波長シフトした中間体pB’になる。その後pB’は~1 msの時定数でpB状態へと変化し、最終的に中間体pBは基底状態pGへと戻る。この光サイクル反応中に誘起される構造変化について、これまで様々な手法を用いて研究されており、それらの結果によるとpB’とpBの中間体はそれぞれ、発色団のプロトン移動に伴う発色団周辺の構造変化状態とN末端を含むPYP全体の構造変化状態であると解釈されてきた。しかしながら、実際は構造変化を時間分解で直接捉えることのできる有用な実験手法がほとんどなかったため、PYPの構造変化、中でもとりわけシグナル伝達において重要とされるN末端領域の構造変化がどんな時間スケールで起こっているのかについては、今のところ明らかにされていない。そこで本研究では、過渡回折格子(Transient Grating, TG)法を用いて拡散係数の時間発展を観察することにより、拡散係数変化の観点からN末端領域での構造変化ダイナミクスを明らかにした。
このPYPに対し、過渡回折格子(TG)、光音響(PA)法などを適用し、その光サイクルの第一過程におけるエンタルピー変化・体積変化を測定することに成功した。この場合、TG法で観測された時定数は、吸収変化とよく対応しており、発色団付近の構造変化として解釈できる。興味深いことに、その体積変化の値が温度に依存することを見出した。従来の光音響法では、体積変化などは温度変化しないと仮定しなければ解析できず、その妥当性が問題になるが、ここで初めて体積変化にかなり大きい温度依存性があることが示された。PA信号の温度変化からも同様な結果が得られ、常温で−7cm3/molであった体積変化は、0度付近では−15cm3/mol程度にもなっていることがわかった。このような非可逆反応で、体積変化の温度変化が見られたのは、我々の知る限り初めてであり、蛋白質の特性との関係を明らかにするために有効であると考えられる。
(i)拡散係数の時間変化
反応に伴う拡散係数の大きな減少が観測された。この減少は、いくつかのN末端欠損ミュータントの測定により、N末端領域でのαへリックスの崩壊のためと同定された。では、この構造変化速度はどれぐらいで起こるのであろうか。その速度を調べるため、非常に大きな波数のもとでのTG信号を測定し、その構造変化が100マイクロ秒というこれまで考えられていた速度よりも一桁速く起こることを明らかにした。
(ii)圧力変化
PYPの光化学反応中でのダイナミクスや構造変化は、これまで種々の分光法を用いて研究されてきた。しかしながら、蛋白質構造揺らぎとその反応がどのように関係しているのか、中間体の揺らぎはどうなっているのかなど、ほとんど分かっていなかった。そこで本研究では、過渡回折格子(TG)法により熱力学量の圧力依存性を調べることで、揺らぎに関する考察を試みた。高圧下における過渡吸収スペクトル測定を行い、中間体生成反応への圧力効果についても検討した後、TG信号の圧力依存性から中間体の圧縮率の時間分解測定を行った。中間体で特徴的に揺らぎが増大していることを示す結果が得られた。
(2)タコロドプシンの光サイクル反応
生物の持つ細胞内受容体の中で、Gタンパク質共役型受容体(GPCR)は最も広く数多くの生物種に分布しており、光や化学物質など様々な外的刺激に対応してシグナル伝達を開始する。従って細胞内シグナル伝達の機構を理解する上でGPCRは非常に良いモデル系となっており、生物学的および医学的にも多くの研究がなされている。例えば、光受容のGPCRとして、ウシなどの脊椎動物のロドプシンが広く研究されてきた。しかし、脊椎動物のロドプシンは、光を吸収すると活性化状態になったあと、発色団であるレチナールがタンパク質から解離してしまう。一方、Octopus defleini(ミズダコ)の網膜中に含まれるタコロドプシンは青色光を受容することで活性型へと変化し、G−タンパク質を活性化するにもかかわらず、活性型であるAcid-Metarhodopsinが安定に存在するという特徴を持つ。興味深いことに、このAcid-Metarhodopsin(Acid Meta)はオレンジ光を吸収することで、不活性型のRhodopsinへ変換される(逆反応)。つまりタコロドプシンは脊椎動物と全く異なる視覚制御のメカニズムを持っており、その光反応およびG-protein活性化の機構を調べることはGPCR系の受容器のシグナル伝達機構を知る上で新たな知見を与えると期待されている。とりわけタコロドプシンは脊椎動物と異なり活性化状態から不活性化状態へ光を用いて変換できる逆反応プロセスを持つことが特徴的であるが、これまでのところタコロドプシンの逆反応についてはほとんど研究がなされていない。その反応ダイナミクスを分光学的手法を用いて調べた。
(3)センサリーロドプシン
センサリーロドプシンIIは古細菌の細胞膜中に存在する光受容タンパク質であり、青色光から逃げるためのセンサーの働きをしている。このタンパク質が光励起されると、同じ膜中にあるトランスデューサータンパク質(NpHrII)に信号を伝達し、生物学的な応答を引き起こす。この信号伝達の分子論的機構は多くの興味をもたれており、構造変化を検出するための努力が続けられているが、まだ明確で大きな構造変化は検出されていない。我々は、センサリーロドプシンIIのD75N変異体とNpHtrIIの相互作用ダイナミクスを、過渡回折格子(TG)法を用いて調べ、発色団であるレチナールを用いた過渡吸収法では検出できない部分の構造変化が、体積変化や拡散係数変化として検出できることを示してきた。ここでは更に詳細な構造変化ダイナミクスを明らかにするために、長さの異なるNpHrII-D75Nタンパク質複合体を作成し、その変化を調べた。こうした構造変化を起こす部位を特定するために、長さの異なるNpHrIIを用いて同様な測定を行った。その結果、驚くべき事に1-114残基の長さのNpHtrIIでは、この拡散係数変化が観測されない事がわかった。即ち、先の測定における拡散係数変化をもたらしている領域は、NpHtrIIの114-120というたった6残基部分であることが分かった。NpHtrIIの構造が最近報告されたが、それによると、興味深いことにこの部位はちょうどHAMPドメインと呼ばれる領域の中のαヘリックスを作っている部位に相当していた。このことと、我々の以前の研究より、信号がセンサードメインからトランスデューサードメインに移るときに、ヘリックスを壊すほどの大きな構造変化をしていると解釈される。また、この領域をより多く含む1-157残基のNpHtrIIでは、より拡散係数変化が大きくなることが分かった。
(4)アナベナロドプシン
アナベナセンサリーロドプシンは近年、真正細菌において発見された微生物型ロドプシンである。これら微生物型ロドプシンには、イオンポンプや光センサーとしての機能をもつものがあるが、ASRは光センサーの役割を担っており、周囲の光環境を感知し、これに応じて光合成系における光補集系の調節を司ると考えられている。機能発現において重要となるのは細胞内に存在する水溶性のトランスデューサー蛋白質(14 kDa protein;Tr )への伝達過程である。このような信号伝達は蛋白質間の相互作用を通して行われ、高次の構造変化といった形で現れるが、こうした蛋白質の構造変化は吸収変化を伴わないことが多いため、実験的観測は困難であった。このASRの反応に伴う構造変化と蛋白質間での相互作用ダイナミクスを過渡回折格子(TG)法を用いて検出することを試みている。まず、ASR自体の光反応サイクルに伴う構造変化をTG法で詳細に調べた。他のセンサータンパク質と違い、ASRでは発色団であるレチナールのall-trans型と13-cis型の間の存在比が光条件によって変動することが、分光学的研究を困難にしている。そこで、発色団がall-trans型から反応が起こる場合と13-cis型から反応が起こる場合の反応過程の違いを明らかにするために、明条件と暗条件でTG測定を行い光サイクルの検討を行った。これをもとに、ASRの溶液にTrを加えたときの信号の変化を観測し、センサー部位からトランスデューサー蛋白質への信号伝達過程について調べた。
(5)フォトトロピン
フォトトロピン(Phot)は植物の青色光受容蛋白質の1つであり、植物が光のある方向へと伸びる機構(光屈性;phototropism)に関わるセンサー蛋白質である。この蛋白質はLOVドメインと呼ばれる多くのセンサー蛋白質に共通に見られるドメイン構造を持ち、その反応に伴う構造変化に興味をもたれている。Photでは、発色団FMNがLOVドメインに非結合的に結合しているが、青色光の吸収でLOVドメインと共有結合を形成し、数秒〜数十秒で共有結合が切れて暗状態に戻るという光サイクル反応をする。しかし、ロドプシンなどのセンサー蛋白質とは違い、吸収スペクトル変化で検出される中間体は非常に少ない。これに対し我々は、吸収スペクトル変化を伴わない構造変化としてLOVドメイン外部にあるα-helixが壊れる中間体があり、それによって分子の並進拡散係数が大きく変わることを過渡回折格子法により明らかにした。
(a) Photo1LOV1
暗状態において安定に2量体を形成しており、光励起による反応量子収率が他のLOVドメインと比較すると非常に小さいことから、全長フォトトロピンにおいてダイマー化サイトとしての役割を有していると考えられている。その光反応を過渡回折格子法により調べたところ、低い量子収率のため信号は弱いものの拡散係数変化が観測された。またその反応速度が濃度に対して線形に依存することから4量体形成反応(2量体+2量体)が光誘起されていることが明らかになった。同時にこの4量体形成の反応速度が励起光エネルギーにも依存して変化することから、phot1LOV1は反応に対する光強度の影響を利用して光感受性の調節を担っているという可能性も示唆された。
(b) Phot1LOV2
sの時定数でlinker部分がLOV2ドメインより解離し、さらにlinker部分に含まれるhelixが1msの時定数で壊れるという劇的な反応が光誘起されることが明らかになった。これらの時間分解反応検出はシグナル伝達機構を明らかにする上で非常に重要な知見となるであろう。?LOV1がダイマー化サイトとしての役割を担っている一方で、LOV2はkinaseの活性制御に重要であると報告されている。その会合状態に関しては暗状態において単量体と2量体の平衡状態にあることがゲルクロマトグラフィーの濃度変化測定によってわかった。これらを光励起すると単量体は会合して2量体を形成し、2量体は解離して単量体になるという複雑な反応を示すことを、拡散係数変化を時間分解で捉えることにより明らかにした。またその拡散係数変化の度合いが2倍の体積変化に対応していることから、LOV2ドメイン自体の構造変化は非常に小さいことがうかがえる。つまりLOV2ドメインが光情報を伝達する際、ドメイン間の相互作用変化が重要であることが示唆された。一方LOV2とkinaseを結ぶlinkerを含む試料では、暗状態において単量体として安定に存在し、linker部分はhelixを形成しLOV2ドメインと疎水性相互作用で結合していることがこれまでの研究でわかっている。この試料の光反応を過渡回折格子法や過渡レンズ法を用いて検出したところ、光励起後まず300microsecの時定数でlinker部分がLOV2ドメインより解離し、さらにlinker部分に含まれるhelixが1msの時定数で壊れるという劇的な反応が光誘起されることが明らかになった。これらの時間分解反応検出はシグナル伝達機構を明らかにする上で非常に重要な知見となるであろう。
(c) Phot2LOV1
ゲルろ過クロマトグラフィーやX線小角散乱の研究により、暗状態でも光照射下でも2量体を作っていることがわかっている。過渡回折格子法で光反応構造変化を調べたところ、拡散係数変化はほとんど無いようであった。溶液状態でのこのサンプルは、光依存的に発色団が外れやすく、また、それと同時に(発色団の外れたアポタンパクが増えるにつれて)光励起による4量体形成反応(励起分子+アポタンパク)がわずかに起こっていることが分子拡散の信号から確認された。今後の研究の上で、サンプルの安定性(発色団が外れやすい)が問題であるが、このような性質は何らかの生物学的意義を持つのかもしれない。
(d) Phot2LOV2
4種類のLOVコンストラクトのうち唯一、暗状態・励起状態ともに単量体のままであり、単量体のままでどのような構造変化が起こっているかを調べる上で最適なサンプルである。これまでに過渡吸収ではD447→L660→S390→D447という光反応中間体しか検出されていなかったが、LOV2サンプルでは、L660中間体の後にS390(I)→S390(II)という変化(体積膨張、寿命は9ms)があることがわかった。また、LOV2とkinaseの間を繋ぐlinkerを含むサンプルでは、L660中間体の後に、3つの構造変化(体積収縮(140μs)、拡散係数減少(2ms)、体積膨張(9ms))があることがわかった。またこれらのエネルギーダイナミクス、中間体の熱容量変化、熱膨張係数変化を求め、中間体の構造に関する知見を得た。拡散係数の減少や円二色性分光(CD)により、このlinker部分での変化はhelixが壊れるという光反応構造変化であることがわかった。
(6)YcgF
多種多様な生体内で青色光センサーの役割を果たす蛋白質群がsensor protein of Blue Light Using FAD(BLUF蛋白質)として近年新規に確立され、様々な分野から研究がなされている。BLUF蛋白質に共通して存在し、光受容を担うドメイン“BLUFドメイン”が分子間あるいは分子内でのシグナル伝達を担っていると考えられており、その分子論的機構解明のために、蛋白質全体の構造変化やドメイン間相互作用変化の時間分解検出が求められている。このために、同一蛋白質内にBLUFドメインと活性機能を示すEALドメインを持つ、大腸菌由来のBLUF蛋白質“YcgF”を取り上げ、その光反応を調べている。特に蛋白質分子が溶液中を拡散していく過程に注目し、過渡回折格子(TG)法によりその時間変化を捉えることで、従来の手法では検出が難しかった蛋白質の体積変化・蛋白質―溶媒間相互作用の変化・凝集反応等に関する検出を行った。反応速度が濃度に依存することから凝集反応(ダイマー化)が光誘起されることが明らかになった。さらに拡散係数変化の度合いを考慮すると、凝集反応だけでなく溶媒との相互作用を強める構造変化が起こっているとわかった。
(7)PixD
PixDはシアノバクテリアの青色光センサータンパク質であり、フラビンを発色団としてもつBLUF (sensors of Blue Light Using FAD) ドメインが光受容を担い、その機能を発現させる。PixDの光反応は主に、紫外可視および赤外の光誘起スペクトル変化から、またそのダイナミクスが過渡吸収法により研究されている。これらの手法は発色団近傍の局所的な構造変化を敏感に捉える一方で、機能と密接に関わるタンパク質全体の動的な構造変化についての情報を得ることはできない。そこで本研究では、過渡回折格子(TG)法および過渡レンズ(TrL)法を用い、体積変化や拡散係数といった物理量を時間分解で観測することで、構造の観点からPixDの光反応ダイナミクスを詳細に考察することを試みた。早い時間領域で励起分子から放出された熱の拡散を示す信号が観測された。その後、40 ?sの時定数をもつ反応ダイナミクスが検出されたが、この成分は過渡吸収では見られなかったことから体積変化を反映した信号に帰属された。ミリ秒領域の山型の信号は格子波数に依存することから分子拡散信号であると同定され、解析の結果、拡散係数が減少するような反応が光誘起されることが分かった。さらに、観測する時間領域を変化させることで、光反応生成物の拡散係数が時間に依存して変化していることが明らかとなり、この拡散係数変化の時定数が3 msと求められた。
この拡散係数を減少させる反応機構を詳細に明らかにするため、TrL法を用いてこのダイナミクスの濃度依存性を測定し、検討している。
(8)Phytochrome
フィトクロムは最も古くから知られている植物の光受容体であり、赤色光受容状態・遠赤色受容状態の2状態間をフォトクロミックに変化する。植物の発芽・形態形成など多くの機能に関してスイッチをon/offする調整因子として働く。未だに結晶構造は得られていないが、形状がどのように変わるかはX線小角散乱の研究により明らかになってきた。過渡回折格子法で調べたところ、過渡吸収で検出される成分は微弱過ぎて検出されず、拡散係数変化に由来する強い信号が検出された。光が当たると、早い時間に(1ミリ秒以内)いったん拡散係数が小さい構造をとり、その後、N末端側でへリックスが形成されるのと同じ時間領域で拡散係数が少し大きくなることがわかった。
(9)bacterioPhytochrome
フィトクロムと遺伝子的によく似たタンパク質がバクテリアで発見され、それらをバクテリオフィトクロムと呼んでいる。バクテリオフィトクロムのうちで特にフィトクロムによく似ていることからCph1と名付けられたタンパク質がある。このタンパク質はフィトクロムと同様に赤色光と遠赤色光により光可逆的変換反応を示し、赤色光を吸収するPr状態が自己リン酸化してレスポンスレギュレーターにリン酸を転移しシグナル伝達活性を示すことがわかっているが、その構造や機能についてはあまり知られていない。そこで、本研究では過渡回折格子法(TG法)を用いてこのタンパク質の構造変化ダイナミクスを検出することを試みている。
(10)AppA
AppAは、光合成細菌の持つ、光によってDNAから蛋白質への発現をコントロールする蛋白質であり、その生理学的な重要性と共に、蛋白質の構造変化と情報伝達という関係で、多くの研究者の興味が次第に増加してきている蛋白質である。この蛋白質は過渡吸収法で観測すると、光励起により1ナノ秒以内に新しい中間体が生成し、30分で元の状態にもどるフォトサイクルを示す。しかし大きな蛋白質構造変化を要するであろう生体機能のための構造変化が1ナノ秒で完成するとは考えにくい。その構造変化過程を時間分解で捕らえ、また物理化学的にその変化の機構を説明するために、過渡回折格子法を用いてダイナミクスを研究した。光励起による過渡的なアグリゲーション生成を抑えるための非常に弱い励起光で過渡回折格子信号を測定することで、光励起によって拡散係数変化を示すことが明らかとなった。更に、回折格子信号の波数依存性を測定する事により、この拡散係数が時間変化していることが明らかとなり、理論的な解析式によるフィッティングによってその速度を決定することに成功した。また、この拡散係数変化速度にはタンパク質濃度依存性があることが見いだされ、その濃度依存性実験により、ダイマー生成が主な反応過程であることが結論された。このダイマー化形成速度を明確に決定することに成功したことは、このタンパク質によるDNA発現機構に、分子間相互作用の変化が関わっている事を示しており、この分野の研究において非常に新しい展開をもたらしたと言える。
更に、このダイマー形成がどういう分子論的機構によるのかを検討するため、熱力学量の測定を時間分解で試みた。その結果、中間体のエネルギーは光センサータンパク質としては非常に小さい値を持つことがわかった。また、その熱容量を時間分解で検出することにより、初期中間体においては熱容量が増えるが、ダイマー形成に従って減少することを見出した。このことは、ダイマー形成の分子論的原因が、疎水性相互作用によるものであることを示している。このように、光吸収では検出できない会合過程における熱力学量を、時間分解で観測したのは初めての成果であり、いかにして反応によって分子間相互作用をコントロールしているかを明らかにした初めての例であろう。
(11)クリプトクロム
Cryptochrome は、青色の光を受けて胚軸の伸長を抑制したり、子葉を展開するといった光形態形成を制御する光受容蛋白質であり、分子量75kDaの水溶性蛋白質である。その構造は、C末端ドメインとN末端ドメインの二つの領域を持ち、紫外線照射による損傷をうけたDNAを修復するphotolyase と大きな相同性を持つN末端ドメインの構造は明らかになっているが、植物生理学的に重要と言われているC末端ドメインの構造は未だ不明である。光受容のために、N末端ドメインにFADとプテリンという2つの光を吸収する発色団をもつ。プテリンは、光エネルギーをより効率よく受容するアンテナの働きをし、吸収したエネルギーは基底状態にあるFADに移動しFADを励起させる。FADが励起されると、FADからTrpに、TrpからTyrに分子内電子移動が起こるというモデルが過渡吸収測定により報告されている。このように発色団近傍の局所的な変化の研究はなされているが、光形態形成等の機能のうえで重要な蛋白質全体のグローバルな変化については全く知見が得られていない。そこで本研究では、過渡回折格子法(TG 法)を用いて、Cryptochromeの分子内電子移動を伴う光反応における蛋白質部分の構造変化を調べた。
(B)センサータンパク質
(1)カルモジュリン
Ca2+結合蛋白質であるカルモジュリン(CaM)は、多くの生物の体内に存在し、Ca2+によるシグナル伝達の仲介を担っている。2つの球状ドメインが長い一本の?ヘリックスでつながれたダンベル型の構造をもち、それぞれのドメインは2つの?ヘリックスとそれらをつなぐループからなる構造(EFハンド構造)2組から構成される。ここがCa2+の結合領域であり、それぞれのループにCa2+が取り込まれることで、EFハンドを構成するヘリックスの配向が大きく変わり、内に潜んでいた疎水部分が外側に露出する。この構造変化をうけてCaMは活性化され、次なるターゲット蛋白質を活性化し、シグナルを伝えていく。これらの信号伝達の鍵となるのがCa2+結合によるCaMの構造変化である。そこで我々は過渡回折格子(TG)法を応用し、この構造変化ダイナミクスを検出することを試みている。CaMのように光吸収をもたない蛋白質は光で直接励起できない。そこで本研究ではTG法を応用するためにケージドカルシウムのCa2+放出を用いた。ケージドカルシウムは光照射によってCa2+を放出する。この放出されたCa2+でCaMのグレーティングを誘起した。測定の結果、Ca2+放出に由来する強い体積収縮信号のほかに、CaMがCa2+を取り込むことでこの収縮した体積がもとに戻る(体積膨張)信号が観測され、こうしてCa2+とCaMの相互作用過程を時間分解で検出することに成功した。
(2)HemAT
気体センサータンパク質は、その生理的な重要性から、気体分子認識機構やダイナミクスが大変注目されている。例えば、HemATは枯草菌の走気性をコントロールするセンサータンパク質として知られている。HemATは酸素分子を認識し、さらにシグナル伝達を行う。これまで、共鳴ラマンやFTIRのような分光研究が行われてきているが、まだ構造変化に関するダイナミクスの時間分解測定の研究はほとんどない。また、その酸素分子と他の気体分子を区別できる気体認識機構についてもまだあまり知られていない。我々は過渡回折格子法(TG法)を用いて、HemATの溶液中でのダイナミクスについて研究した。さらにHemATの全長のダイナミクスだけではなくセンサードメインのダイナミクスや、ヘム鉄が酸化された状態や還元された状態についてもTG法で測定した。
(C)エネルギー変換タンパク質
光合成中心
(D)タンパク質の折り畳み
多くの蛋白質は、その残基数から予想される構造が天文学的な数存在するにもかかわらず、適切な条件では唯一の天然構造にすばやく折りたたまる。この蛋白質フォールディング機構の解明は、分子科学的にも興味深いテーマであるし、変性蛋白質が原因とされている様々な病気の治療法開発のためにも非常に重要である。この折りたたみ機構を説明するために、現在ではファネルモデルが有力視されている。このモデルにおいて、フォールディングは、自由エネルギー(構造エントロピー以外のエントロピー成分とエンタルピー成分との和)が最小になるように進むと考えられている。したがって、折りたたみの研究では、その経路に沿った熱力学量変化の測定が重要となる。とりわけ、エンタルピー変化は、タンパク質構造形成に重要な、van der Waals相互作用やアミノ酸側鎖間の水素結合の変化、あるいはアミノ酸側鎖と水の水素結合変化(水和効果)を反映するため、その実験的測定は重要な意義を持つ。
(1)チトクロームCの折り畳みダイナミクス
タンパク質の構造、反応を理解する上で、周囲の水分子との相互作用は重要な因子である。こうした相互作用、特に反応途中における相互作用のダイナミクスはどうやれば検出できるのであろうか。こうした問題に対して、蛋白質の拡散係数の時間変化より観測するという新しい手法を開発した。 分子の拡散係数(D)は、その分子の動きやすさを表す指標であり、溶液の粘度、温度、分子の大きさなどとともに、分子間相互作用を反映する重要な物理量である。そのため、19世紀以前より拡散現象の研究が進み、化学反応を記述したり、溶液の性質を明らかにする上でも欠かすことのできない物理量となっている。実験的測定においても、種々の方法が開発されて測定が行われてきている。しかし、こうした測定のほとんどが数時間のオーダーでの測定であり、測定対象としてはこの時間範囲で安定な分子あるいは原子であり、当然、拡散係数の時間発展という概念は少なくとも実験的には考えられたことがなかった。この拡散係数が、溶媒分子と蛋白質の相互作用を反映する物理量であることに着目し、蛋白質の反応を新たな観点から調べる手法として用いられないかという観点で、蛋白質折りたたみダイナミクスの研究に適用することを計画した。このために、パルスレーザー誘起の過渡回折格子(TG)法を用いた。この手法によれば、分子のDがマイクロ秒からミリ秒の時定数で測定可能となり、蛋白質折り畳みにおける相互作用ダイナミクスの検出が可能となると考えられる。具体的には、チトクロムcという電子移動にかかわる蛋白質の、折りたたみに伴う拡散係数の時間変化を測定した。このために、NADH分子を2光子で光励起し、溶媒和電子を作り出し、チトクロムcの鉄原子を還元する手法を用いた。チトクロムcの蛋白質構造の安定性は、この鉄原子の酸化状態に依存し、還元状態では酸化状態よりも安定である。よって、パルスレーザーにより、チトクロムcの折りたたみ反応のトリガーをかけることが可能となる。この折りたたみ反応が起こった後のTGの時間変化を解析したところ、蛋白質の構造変化に従ってDが時間変化しているという証拠が得られた。これにより、初めて蛋白質折りたたみ反応における分子間相互作用の時間分解研究が可能となった。
(2)アポプラストシアニンの折り畳みダイナミクス
プラストシアニンは、光合成系において電子伝達を担うβ構造蛋白質であり、電子伝達に重要なCuを有する。このCuを除いたプラストシアニンがアポプラストシアニン(アポPc)であり、β構造蛋白質のフォールディングモデルとして多くの研究が行われてきている。
我々は、折りたたみ初期過程の時間分解研究のために、化学修飾基導入で変性させた蛋白質をレーザーで光解離させることで折り畳みを開始させる手法をとった。さらに検出にTG法を用いることで、これまで測定が困難であった、中間体の拡散係数やエンタルピー変化(ΔH)や熱容量変化(ΔCp)、部分体積変化量(ΔV)、熱膨張率変化(VΔα)を測定し、フォールディングスキームを決定した。これらの物理量を時間分解測定することで、タンパク質の構造変化だけでなく溶媒との相互作用の情報も得ることができた。すなわち、アポPcのフォールディング初期に、疎水凝縮が2段階で起こっていることがわかった。まず最初に、レーザー照射後400nsで化学修飾基が解離した後、270μsで一段階目の疎水凝縮(疎水基の脱水和と親水基の水和)が起こり、続いて23msで疎水基と親水基がともに脱水和し拡散係数が変化する。そして、最終的にプロリン異性化を経て天然状態を形成する(CDで確認)。
このようにフォールディング初期に疎水凝縮が起こることで、タンパク質は可能な構造の数を制限し、すばやく天然構造を形成できると考えられる。我々は、熱信号の大きさを熱リファレンスサンプルと比較することで、光解離のΔHをTG法で、体積収縮と拡散係数変化過程におけるΔHをTrL法を用いて測定した。その結果、光解離によるΔHはほぼゼロで、温度変化もなかったが、体積収縮とD変化に伴う折り畳みのΔHは非常に大きな正の値を示した。またその温度変化から求めたΔCpは大きく負であった。フォールディングの自由エネルギーは負であるはずなので、正のΔHは正のエントロピー変化(ΔS)を意味する。こうした正のΔSと負のΔCpが疎水残基の脱水和過程に特徴的であることから、apoPcのフォールディングにおいて疎水凝縮が2段階で起こっていると結論付けられた。この疎水凝縮により、蛋白質は取りうる構造の数を制限でき、フォールディングの効率を高めていると考えられる。
(詳細は<A href="http://kuchem.kyoto-u.ac.jp/hikari/baden/pc.html">こちら</A>)
(E)その他のタンパク質反応
(1)ミオグロビンの光リガンド解離に伴う構造変化と中間体のエネルギー
ミオグロビンは過渡吸収やラマンなどの光散乱法、発光検出など多くの手法で研究されている、代表的な蛋白質であり、そのリガンドを光解離した後のダイナミクスについて、種々のpH、温度、圧力等多くの条件のもとで調べられている。ところが、室温でのエネルギー変化やリガンドの蛋白からの脱離速度など基本的な多くのことが不明のまま残されている。こうした点や蛋白質の構造変化について調べるため、上述の方法を適用した。信号を定量的に解析することで、光で切れたCOが蛋白質から抜け出るのに室温で700nsかかること、COが切れた瞬間に蛋白質は約5cm3/molの体積収縮があること、COが蛋白質から出ると15cm3/molの膨張になることなどが明らかとなった。また各中間体のエネルギーを決めることもできた。更に、COがgeminate recombinationできるサイト以外に、もう一つヘムポケットがあることも明らかとなった。現在、この体積変化の原因を調べるためsite mutationの手法を用いて研究を続けている。
(2)pHジャンプ法
(F)タンパク質の物理化学
(1)タンパク質の拡散
これまで多くの蛋白質について、構造変化に伴って拡散係数が大きく変化するという現象が確認されている。例えばCytochrome cではNative状態に比べてUnfold状態では拡散係数は約半分になる。しかし、この劇的な拡散係数変化が何に由来するのか、という問題は明らかではない。例えば拡散係数と慣性半径の関係を見積もる経験式が提案され、多くのNative状態の蛋白質がこの式に従うことを明らかにされている(1)が、これはUnfold状態、Molten Globule状態といった構造変化には適用できない。これらの典型的な状態と拡散係数がどのような関係であるかを明らかにすることができれば、こうした相関を利用して拡散係数の観点から構造情報を得る事ができるであろう。こうした事が可能になれば、例えばCDなどを測定するのが困難である高圧条件下での構造についても、拡散係数という物理量から明らかにすることができると考えられ、有力な手法として用いられるであろう。
動的光散乱法を用いて、様々な状態(Unfold状態、Native状態など)における蛋白質の拡散係数を求めたところ、Unfold状態の拡散係数はいずれも小さかった。これまでに、光センサー蛋白質で、光反応に伴って構造が部分的にdisorderになる時に拡散係数が小さくなる様子がしばしば観測されてきたが、Unfold状態の拡散係数が小さくなったのはこれと同じ理由、すなわち、溶媒分子との相互作用が増えたことによるものと考えられる。また、HelixとSheetではどちらが拡散係数が大きいのか?というのは興味深いテーマの1つであり、これらの二次構造を自由に作ることのできるPoly-L-lysineを用いて現在研究しているところである。
3、光化学反応中間体の並進拡散運動の研究
反応中間体の関与する化学反応理論においては、必ずと言っていいほどその中間体の拡散定数(D)が現れる。しかしその理論を用いる際の基礎となる、並進拡散運動の研究は、約100年の歴史においてほぼ例外なく安定な分子の拡散データーを基に行われ、体系作られてきた。これまでの光化学の研究では、こうしたデーター及び理論を化学反応中間体として現われる化学種に対してそのまま適用し、解釈されてきた。しかし、本当にその扱いは正しいのであろうか。我々は、TG法を用いることで、化学的に活性な過渡分子のDを測定することに初めて成功した。その結果、光誘起水素引き抜き反応で生成した過渡ラジカルや電荷分離によるイオンラジカルなどのDは、大きさや形のほぼ等しい安定分子に比べて、3〜1.5倍も遅く動いている事を発見した。またその効果は、サイズの大きい分子では薄められること、拡散の活性化エネルギーも安定分子とラジカルで異なることなどを見いだした。この発見は、安定分子とラジカルの拡散定数が同じであるというこれまでの常識と異なるものである。しかし、温度依存性や溶媒依存性など広範な研究を行い、その原因は溶媒とラジカルとの間の引力的相互作用のためと結論した。最近、幾つかの理論グループの興味も引き、溶液中でのラジカルダイナミックスの新しい理論的取り扱いが開発されるようになり、この発見した結果を説明する理論的裏付けが得られているのみならず、分子間相互作用と拡散過程に関する一般的理論へと発展している。化学反応のkineticsを多少とも解析したこれまでの膨大な論文の多くは、通常の安定分子とラジカルの拡散定数が同じであるというこれまでの常識に基づいて反応が解析されていたが、この研究はそのほとんどを見直さなければならないということを意味する。TG法以外でも、時間分解ラマン散乱を用いてラジカルー溶媒間の引力的相互作用を検証し、また時間分解パルスESR、テーラー分散法など多方面からこの新現象の完全なる解明に取り組んでいる。
更に過渡ラジカルのみならず、励起状態にある分子の拡散を測定できるシステムを組み立てることに成功した。本システムを励起三重項(T1)状態にある分子に適用し、基底状態分子のそれと比較した。化学反応あるいはエネルギー移動などを扱う際、その中間体の並進拡散運動は非常に重要である。それにもかかわらず、これまでは拡散測定に数時間のオーダーの時間が必要なため、ほとんど短寿命中間体の拡散定数(D)は知られていなかった。これに対して波数qを従来の装置の10倍にすることで、これまでより100倍近く短寿命の中間体を検出できるシステムに変更し、これまでにない短寿命ラジカルやT1分子のDを測定できた。 T1状態におけるDを、benzophenone, fluorenone, nitrofluorenenoneなど多くの分子について測定した。その結果、多くの分子で、T1状態においては基底状態よりもわずかだがDが大きいことがわかった。T1状態において電気双極子モーメントが増える分子や減る分子について検討した結果、このDの変化には電気双極子モーメントの影響はほとんどないことが明らかとなった。
4、新しい円二色性検出法の開発
円二色性は、高次構造を解明するために有力な手法であるが、多くの分光法のなかでほぼ唯一速い時間分解測定が困難な(事実上不可能な)手法であった。この検出法に対し、過渡回折格子法を持ちいることで、高感度に時間分解測定が可能であることを理論的に示し、実際に検出を確認した。これにより、立体構造変化から見た光化学反応という新しい分野の開発を試みている。この新しい測定法の開発により、キラル分子の立体構造変化から見た光化学反応という新しい分野の創成を可能とした。
5、無輻射遷移検出による励起状態ダイナミックス及び光熱変換素過程の研究
光反応あるいは励起状態ダイナミックスの研究では、発光観測や過渡吸収検出による研究が多くなされているが、そのどちらによっても検出不可能な分子が数多く存在する。そうした分子については従来の研究手法ではまったく知見が得られず、「未知な分子」として取り残されてきた。しかし、分子の受け取った光子エネルギーのほとんどは無輻射遷移により放出される為、生じる熱を検出することで、非常に一般的に励起状態ダイナミックスの研究が可能となる。この考えに基づいて、時間分解熱検出という新しい測定法を用い、これまで多くの化学者が興味を持ちつつ励起状態の性質の不明であった分子の励起状態ダイナミックスを明らかにした。例えば、ニトロベンゼンは、置換芳香族の代表分子でありエネルギー移動や化学反応の研究に多く用いられているが、発光せずまた過渡吸収も弱いため励起状態ダイナミックスはほとんどわかっていなかった。この分子にサブピコ秒レーザーを用いたTG法を応用し、励起状態ダイナミクスを明らかにできた。こうしたデータを基に理論計算を行い、特異的なダイナミックスはNO2の部分が面外に大きく歪むことに由来することを明らかにし、謎に包まれていた分子の性質を解きあかした。
この光エネルギーから熱エネルギーへの変換という現象は古くから知られていたが、どういう機構で、またどういう速度で温度に変わっているかは不明であった。また、光励起後のエネルギーの流れの素過程を解明することは、光化学反応にとっても重要であるし、物理化学の一つの大きい目標でもある。現在までその研究が進展していなかったのは、速く放出される熱を高速時間分解で捕らえる手法がなかったために他ならない。これに対し、新しい熱由来の非線形光学効果を見い出して、従来の手法では100ピコ秒の時間分解能を越えるのが困難であった熱検出の分野で、1〜3ピコの時間分解能を得ることに成功した。更にその新規な非線形光学現象の原因を深く追究し、分子間の衝突による効果であることを明らかにし、原理的には100フェムト秒の時間分解能が得られることも示した。これは、熱検出として現在世界最高の時間分解能である。また最近では、「分子温度計-分子ヒーター」統合システムを開発し、発熱分子の温度をナノメートルの空間分解能でピコ秒の時間分解能をもって検出することを可能にした。これらの手法を用いてエネルギー形態の変化を、最終的なエネルギーのアクセプティングモードである並進温度の観点から捕え、励起エネルギー熱化の素過程を明かにしていく研究を行った結果、発熱の機構として、多くの新しい知見を得ている。例えば、分子の持つエネルギーは、周囲の溶媒分子に均等に移るのではなく、高だか数個の分子に効率よく受け渡され、水素結合等の分子間相互作用を通して効率よく移動することなどを明らかにした。こうした研究結果は全く新しい知見である。更に反応熱という更に一般的な場合への関心、例えば化学反応におけるエネルギー授受としての溶媒の役割を考える上でも、興味が持たれる。
6、過渡レンズ法の開発
40年以上の歴史があり、多くの分野に用いられている熱レンズ信号に、従来誰も気付いていなかった新しい成分が存在することを初めて明らかにした。これらの成分を考慮していない従来の測定の幾つか(あるいは多く)は、明らかに誤ったデーターを与えていたことになる。この点に関して警告したばかりでなく、この新しい成分を積極的に用いることで、熱だけでなく多くの物理化学的測定が可能となることを実際に示し、新しい測定法、過渡レンズ法を開発した。このことを明確に示すために、発見し同定した幾つかの新しいレンズ成分の命名を行っている。
7、固体/液体、気体/液体界面でのダイナミックス
生体膜をはじめ、化学触媒など多くの反応は界面で起こるため、そうした非対称環境下での分子ダイナミックスを明らかにすることは非常に重要である。しかし、界面における分子数が、それぞれの相における分子数に比べて圧倒的に少ないため、バルク中で成功を収めてきた分光法をそのまま適用したのでは、バルク中での応答に打ち消されて界面現象は見えてこない。特に界面における分子並進運動や化学反応についての情報はほとんど得られたことが無いと言って過言でないであろう。ここでは、プローブ反射法のTGを用いて、固体/液体、気体/液体界面でのダイナミックスを研究した。固体/液体界面に置いては、液体から固体への早い熱移動が観測されたが、分子拡散はほとんど液体相での拡散と変わらないことがわかった。しかし、シスートランス異性化反応は界面に置いて1000倍ほども促進されていることが明らかとなった。気体/液体界面におけるTG信号のダイナミックスを検討したところ、その信号にはレーザー誘起の表面波が大きく寄与していることがわかった。このレーザー誘起の表面波発生について調べたところ、光吸収による熱膨張と共に表面張力の減少による波が重なっているとして理論的によく説明できた。また界面における分子拡散はバルク中よりも増大していることが示唆された。こうした研究は、界面における初めてのダイナミックス観測である。